第1回:私のフリースクール生き残り戦略——上京から絶体絶命、そして一筋の光

上京後にフリースクール設立へ挑む中で、絶体絶命から一筋の光を見出す物語をイメージしたアイキャッチ画像(東京の夜明けと希望の光)

桜花ライフアカデミーのメンター・豊田毅先生は、東京都北区で「滝野川高等学院」というフリースクール・サポート校を運営しています。開校5年で都内有数の規模に成長させた豊田先生ですが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。 本記事は、豊田先生が代表を務める「居場所研究会」発行の『季刊 居場所研究』創刊号に掲載された随筆を、全4回に分けてお届けします。フリースクールを立ち上げたいと考えている方、子どもの居場所づくりに関心のある方に、ぜひ読んでいただきたい内容です。

目次

2018年上京、サポート校設立の目標を抱いて

雑誌を作って最初の原稿が苦労話というのはいかがなものかとは思いつつも、どなたかのお役に立てればと思いこのテーマにすることにしました。これから居場所を作っていきたいと考えている方にとって、実際に居場所を作った人からのリアルな話を聞く機会というのは、案外少ないものだと思います。かくいう私も最初は理想だけを掲げて、見切り発車をしてしまいとても苦労しました。初年度からさっそく経営に行き詰まり、作る前にもっと色々な人から話を聞いておけばよかったと後悔しましたが、話を聞くといっても、一体誰に聞けばよかったのか、誰なら具体的なことを教えてくれたのか。当時の私には頼るべきところがありませんでした。

三重県の大学院を出た私は、私立高校を中心に8年ほど教員生活をした後、2018年に東京に移り住みました。東京を選んだのは、サポート校を作るにあたって、「首都圏でモデルケースを作りたい」と考えたためです。そして、そのビジネスモデルを地方に広げていきたいと志したのです。地方での教員生活のなかで、地方から何かを変えることの難しさを感じていた私としては、最初から本丸を攻めるのが一番早く、確実だろうと考え、行動を起こしました。

まず東京での初年度、業界大手の学習塾が運営するサポート校で教員として働き、サポート校の運営、経営について学びました。これまでの教員生活のなかで、私には「売り上げ」という概念がありませんでした。生徒に対して「善いこと」をすれば生徒が増え、給料が上がっていく、むしろ給料は副次的なもので、生徒のために頑張っていればいつの間にか給料が上がっていた、という感覚です。ですから、「株式会社立」の教育機関が売り上げを伸ばしていくために生徒に対してセールスをしかけていくというような感覚に対して、子どもを食い物にしていると感じ、嫌悪感を持っていました。しかしこのような「教員的感覚」が経営者としての私を後々苦しめていくことになります。

2019年、滝野川高等学院設立に向けて

東京での最初の1年間はサポート校で働きながら、経営について勉強を続けました。そして休日や、有給休暇が取れた日には空きテナントの情報を片手に、山手線沿線、中央線沿線、埼京線沿線、というようにその日の目的地を設定し、一駅ごとに降りたり、一駅間を歩いたりしながらサポート校を設立する場所を吟味していきました。朝夕の電車の込み具合を確認して、サポート校の始業時間、終了時間を考えたり、駅からの距離、生徒が駅から徒歩で来た場合の安全性、悪天候時のことを考えたり、考えることは意外に多かったのですが、次第に候補が絞れてきました。第一候補になったのは、東京都北区の王子駅、十条駅、板橋駅の周辺です。このあたりは東京駅や新宿駅、池袋駅などの主要駅からのアクセスが良く、テナント料もさほど高くなく、駅の周辺もほどよく活気がありつつも落ち着いています。

ちなみにとても簡単な概念規定として、サポート校は通信制高校と連携しつつ、高校生の通信制高校卒業をサポートする施設。フリースクールは不登校の主に小中学生が日中の居場所として過ごす施設です。私は中高一貫で不登校の生徒の高校卒業資格の取得をサポートしながら、生活リズムを整える手伝いをし、検定資格取得の後押しをし、大学合格を支え、その先社会で活躍できる人材を育てる、というイメージを持っていたので、それはサポート校であると思っていました。しかし開校してすぐにフリースクールの概念にも当てはまるということを知りました。そんなこともあり校名に「高等学院」というサポート校特有の呼称が入っているわけです。「滝野川」は王子駅から板橋駅の途中にあるとても閑静な地域で、サポート校を構えるにはうってつけの場所でした。

滝野川高等学院設立といきなりの大ブレーキ

数十駅の周辺を歩き回り候補地を選定していく中で、最も理想的だと感じていた滝野川の地にサポート校を作ろうと考えた私は、学校名を「滝野川高等学院」とし、教室となるテナントを2つまで絞り込んでいました。しかしここで運命を大きく左右することが起きます。それは北赤羽駅から至近の場所である浮間で、急に良い条件のテナントの空きが出たという不動産会社からの連絡でした。

連絡を受けた私は、その足でテナントの内見を行い、周辺を散策して、テナント周辺の環境の良さ、何より北赤羽駅から徒歩30秒という好立地に惹かれ即決しました。こうして滝野川から北に5キロほど進んだ北赤羽の地に「滝野川高等学院」は設立されることになりました。

こうして、開校間際で設立場所を変えるというイレギュラーはあったものの、2019年の4月に滝野川高等学院は比較的スムーズにスタートを切ることができました。しかし物事はそう簡単にはいきません。最初に幸先よく高校3年生が1人入校してくれた後は新しい生徒がなかなか入ってくれず、夏に1人、秋に1人、冬に1人という、あまりに寂しい最初の1年となってしまいました。

今思えば、ただでさえ子どもが不登校になり不安を感じている保護者さんが、何の知名度も実績もないサポート校に子どもを預けたいと思うわけがありません。そのため大手の学習塾や大学、専門学校を運営している法人、有名人を広告塔にでき、数年赤字でも揺らぐことのない大企業などが運営しているスクールに生徒が集中することになります。当時の私はそんなことを想像する力すらなかったため、集客で大変苦しむことになりました。

そうした中でコロナ禍になり、全世界的に経済活動がストップしてしまい、経営はいきなり絶体絶命の状態となりました。スタッフ3名と生徒4名での1年間は売り上げ的に大変厳しいものでした。そして何より生徒が誰も来ない日の教室のガランとした感じはとても寂しく、不安なものでした。ほどなく私はアルバイトを始めることにしました。それは東京駅の前の工事現場で交通誘導をするアルバイトで、2019年の秋のことでした。

19時頃、教室のある北赤羽駅を出て、工事現場に20時前に入り、そこから工事が始まります。そして夜明け前の午前4時頃にその日の工事が終わります。午前5時頃の京浜東北線の始発で赤羽まで行き、赤羽のインターネットカフェでシャワーを浴び、教室に戻ってきます。その頃にはもう7時前になっていて、私は教室で9時くらいまで仮眠し、10時過ぎくらいにはスタッフや生徒が教室にやってきます。工事現場で得られる給料が25日に振り込まれて、翌日にはテナント代、光熱費などが一気に引き落ちていきます。工事現場での1ヶ月の頑張りが、「教室を手放さない」だけのために1日で全て消えていきました。そんな中でも何とか耐えて、耐え抜いて、夜中の工事現場に立ち続け半年が過ぎた頃、少しずつ、少しずつ生徒は増えてきて開校2年目の夏前に工事現場の仕事を退きました。

東京都心の冬の真夜中にビル群を吹き抜ける風は言葉では形容しがたいほどに冷たく、冷え切ったアスファルトは容赦なく体温と足の感覚を奪っていきました。その寒さ、冷たさ、苦しさを私は一生忘れることができないと思います。

元旦、東京大神宮にて

東京大神宮

警備員のアルバイトには夜の工事現場以外にもいくつか現場があって、工事現場が休みの年始には、神社の初詣客の動線を管理する現場に行っていました。その現場が東京大神宮でした。東京大神宮には天照大神がお祀りされています。私は大学時代、皇學館大学という日本でたった2つしかない神職を目指すことができる大学に通っていました。大学がある三重県伊勢市は伊勢神宮のお膝元で、伊勢神宮には皇祖神である天照大神がお祀りされています。私はそんなことに不思議な縁を感じつつも、年越しをまさかこんな形で迎えることになるとは思いもしていなかったので、少々複雑な気分で参拝客を誘導していました。そして警備員の控室でつかの間の休憩を取っていたときに不思議な出来事が起こります。

警備員の控室に1人の巫女さんが慌ただしく入ってきて、「すみません、間違えました」と言って、また慌ただしく出ていきました。おそらく巫女さんたちの控室と間違えて入ってきてしまったのでしょう。しかし、しばらくするとまた同じ巫女さんが入ってきました。なんだろうと思っていると、その巫女さんはつかつかと私の前まで歩み寄ってきて、「ひょっとして豊田先生ではありませんか?」と問いかけてきたのです。私は状況がつかめないながらも、「はい、そうですが…」と答えたのですが、すると彼女は、「私、先生のファンなんです」と言って微笑みかけてくれました。聞くところによると、彼女は不登校だった時期があり、不登校の生徒を支援していた私のことをインターネットで知り、密かに応援してくれていたとのことでした。スクールの運営に完全に行き詰っている中で、こうして応援してくれている人がいると知ったことが、私にどれだけの力をくれたことか。そのとき私は絶対にここで諦められない、諦めてなるものかと心に誓いました。

年始の神社での仕事も終わりしばらく後、その巫女さんは滝野川高等学院に入校し、うちの生徒になりました。彼女は大学で単位取得のためのレポートが上手く書けず、単位をいくつも落としていたのですが、サポート校に通うようになって、私から文章の添削を受けるようになると順調に単位を積み重ねていきました。元々極めて優秀な学力を持っていた彼女は、ひとたび文章作成のコツを得ると、そこからは水を得た魚のように結果を出し続け、瞬く間に卒業に必要な単位を取得し、公務員試験では連戦連勝、やがてフリースクールから巣立っていきました。

コロナ禍が終息に向かい、生徒で賑わい始めたスクールで、その役目を終えたようにいつの間にか教室からいなくなってしまった彼女は、ひょっとしたら天照大神から遣わされた、神の使いだったのかもしれませんね(現在は公務員として頑張っています)。


本記事は『季刊 居場所研究』第1巻第1号(居場所研究会発行)より、著者の許可を得て転載しています。

▶ 次回「私のフリースクール生き残り戦略(2)試行錯誤から見えてきた道」へ続く

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